異界紀行:さいたま市の八百比丘尼伝説
八百比丘尼とは、日本各地に伝わる伝承で、人魚の肉を食べたために800歳まで生きたとされる尼僧のことである。
八百比丘尼の伝承は、東北から四国、九州まで日本各地に広く分布しているが、話の中身はほとんど同じである。
巷間最も一般的な八百比丘尼に関する伝承のスタイルは・・・
漁村の庄家の家で、海辺で拾ったという人魚の肉が、近隣の者たちにふるまわれたが、気味悪がって誰も手をつけようとせず、包んで持ち帰るふりをして途中で捨ててしまった。中に一人、庄家の話をよく聞いていなかったかした男がいて、人魚の肉を家へ持ち帰ったところ、男が寝ているうちに娘がそれを食べてしまった。以来娘は年を取らず、結婚しても夫に先立たれ、やがて尼となって全国を巡歴するというものである。
高橋留美子の漫画「人魚シリーズ」は、八百比丘尼伝説に着想を得て、人魚の肉を食ったために不死身の身体となった男女の物語を描いた作品である。また、やはり漫画家だった杉浦日向子の「百物語
」には人魚についてのエピソードが登場し、そのうちひとつは、数百年を生きた八百比丘尼が、自らの腹を開いて内臓を真水で洗うという話であるが、ここまでくると比丘尼も妖怪じみてくる。
普光山浄蓮華院慈眼寺――。
埼玉県さいたま市西区にあるこの古刹は、天長三年(826)慈覚大師円仁により創建されたという天台宗の寺院である。大宮の水波田観音として、地元の人々の信仰を集めているが、それとは別に、八百比丘尼伝説が伝わる寺院として地域史などに名前が登場する。
私も噂を聞きつけて訪れてみた。本堂の東、墓地の一部を切り取ったような場所に、とくに目立った看板があるわけでもなく、八百比丘尼宮という小さな祠は、雨よけの御堂の中にひっそりとたたずんでいる。
お寺の人に教えてもらわなければわかりづらいような場所である。

慈眼寺に伝わる古文書によると、文武天皇の時代(697~707)、若狭の国のある男(伝によると「秦の通鴻」という人)が、友人に誘われ海辺へ行くと、いつのまにか目の前に立派な楼閣がそびえており、中に入ると、御殿の主に珍しいご馳走でたいへんなもてなしを受けた。宴が終わり暇を乞うと、またいつのまにかもとの海辺に立っていたことから、男はさっきまでいた場所が竜宮城であったことを知る。
男は手土産に紙包みをもらっていたが、その中身は人魚の肉であった。
家に帰り寝ていると、男の娘がやって来て紙包みをひらきこれを食べてしまった。それからのち、娘は年を取らず、歳月とともに容貌が衰えることもなく、色白で美しいままだった。多くの者が娘に結婚を申し込んだが、娘は誰にも嫁がず、日々婚姻を申し込まれることを厭い、髪をおろして尼になった。それから諸国を遍歴して霊場を巡拝し、壊れた社寺を修復し、各地で社会奉仕の活動を行い、世間では「若狭の白比丘尼」と呼ばれた。
その後比丘尼は柴の庵を結んで朝夕に斎を行い、神仏に祈ること数百年、やがて姿を消して、どこの国で亡くなったかわからないというものある。
地元には、比丘尼が八百歳の時に当地に立ち寄り、善政をほどこしていた当地の殿様に残りの二百歳の年を差し上げ、自らは紫金の地蔵尊を抱いて亡くなったという伝承も残っているという。
現在、慈眼寺に残されている祠は、比丘尼が亡くなったとされる場所に建てられたもので、比丘尼が抱いていたとされる小さな延命地蔵尊も、同寺に秘仏として残されているとのことである。
慈眼寺に伝わる話は、一部に浦島太郎伝説との混交が見られることが特徴的であると思われるが、大筋においては数多の伝と大差はない。
寺社の修復や治水といった、今日でいう社会福祉事業に携わった僧形の者たちが象徴化された存在が八百比丘尼であり、つまり八百比丘尼とは複数存在したのではないかという説もあり、なるほどと思った。
代表的なところでは奈良時代の行基上人とか、集団を形成して各地で社会事業にあたった僧侶たちがおり、彼らを敬う民衆の信仰心が、八百比丘尼伝説へと結実していったということは十分に考えられる。
不老不死とは、いわば人類最後のロマンであり、それと現実の民衆救済とが結びついた形で、ある種の法話として日本各地で伝説が語り継がれていったということであろうか。
それにしても、一度でいいから人魚にお目にかかってみたいものである。
八百比丘尼の伝承は、東北から四国、九州まで日本各地に広く分布しているが、話の中身はほとんど同じである。
巷間最も一般的な八百比丘尼に関する伝承のスタイルは・・・
漁村の庄家の家で、海辺で拾ったという人魚の肉が、近隣の者たちにふるまわれたが、気味悪がって誰も手をつけようとせず、包んで持ち帰るふりをして途中で捨ててしまった。中に一人、庄家の話をよく聞いていなかったかした男がいて、人魚の肉を家へ持ち帰ったところ、男が寝ているうちに娘がそれを食べてしまった。以来娘は年を取らず、結婚しても夫に先立たれ、やがて尼となって全国を巡歴するというものである。
高橋留美子の漫画「人魚シリーズ」は、八百比丘尼伝説に着想を得て、人魚の肉を食ったために不死身の身体となった男女の物語を描いた作品である。また、やはり漫画家だった杉浦日向子の「百物語
普光山浄蓮華院慈眼寺――。
埼玉県さいたま市西区にあるこの古刹は、天長三年(826)慈覚大師円仁により創建されたという天台宗の寺院である。大宮の水波田観音として、地元の人々の信仰を集めているが、それとは別に、八百比丘尼伝説が伝わる寺院として地域史などに名前が登場する。
私も噂を聞きつけて訪れてみた。本堂の東、墓地の一部を切り取ったような場所に、とくに目立った看板があるわけでもなく、八百比丘尼宮という小さな祠は、雨よけの御堂の中にひっそりとたたずんでいる。
お寺の人に教えてもらわなければわかりづらいような場所である。

慈眼寺に伝わる古文書によると、文武天皇の時代(697~707)、若狭の国のある男(伝によると「秦の通鴻」という人)が、友人に誘われ海辺へ行くと、いつのまにか目の前に立派な楼閣がそびえており、中に入ると、御殿の主に珍しいご馳走でたいへんなもてなしを受けた。宴が終わり暇を乞うと、またいつのまにかもとの海辺に立っていたことから、男はさっきまでいた場所が竜宮城であったことを知る。
男は手土産に紙包みをもらっていたが、その中身は人魚の肉であった。
家に帰り寝ていると、男の娘がやって来て紙包みをひらきこれを食べてしまった。それからのち、娘は年を取らず、歳月とともに容貌が衰えることもなく、色白で美しいままだった。多くの者が娘に結婚を申し込んだが、娘は誰にも嫁がず、日々婚姻を申し込まれることを厭い、髪をおろして尼になった。それから諸国を遍歴して霊場を巡拝し、壊れた社寺を修復し、各地で社会奉仕の活動を行い、世間では「若狭の白比丘尼」と呼ばれた。
その後比丘尼は柴の庵を結んで朝夕に斎を行い、神仏に祈ること数百年、やがて姿を消して、どこの国で亡くなったかわからないというものある。
地元には、比丘尼が八百歳の時に当地に立ち寄り、善政をほどこしていた当地の殿様に残りの二百歳の年を差し上げ、自らは紫金の地蔵尊を抱いて亡くなったという伝承も残っているという。
現在、慈眼寺に残されている祠は、比丘尼が亡くなったとされる場所に建てられたもので、比丘尼が抱いていたとされる小さな延命地蔵尊も、同寺に秘仏として残されているとのことである。
慈眼寺に伝わる話は、一部に浦島太郎伝説との混交が見られることが特徴的であると思われるが、大筋においては数多の伝と大差はない。
寺社の修復や治水といった、今日でいう社会福祉事業に携わった僧形の者たちが象徴化された存在が八百比丘尼であり、つまり八百比丘尼とは複数存在したのではないかという説もあり、なるほどと思った。
代表的なところでは奈良時代の行基上人とか、集団を形成して各地で社会事業にあたった僧侶たちがおり、彼らを敬う民衆の信仰心が、八百比丘尼伝説へと結実していったということは十分に考えられる。
不老不死とは、いわば人類最後のロマンであり、それと現実の民衆救済とが結びついた形で、ある種の法話として日本各地で伝説が語り継がれていったということであろうか。
それにしても、一度でいいから人魚にお目にかかってみたいものである。