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自称ネット作家北浦芸州の妄想天国。アニメ・コミック・読書録・旅行記・その他見てある記

木村紺「神戸在住」の視点

何年か前、年末の神戸を訪れたことがあり、イルミネーションに彩られる祭典・神戸ルミナリエを見に行った。
1995年の阪神淡路大震災を契機とし、被災者追悼と鎮魂の思いをこめ、復興の象徴としてはじまった神戸ルミナリエは、年末のイベントとして多くの観光客を集めている。
そして今年もまた、あの1月17日がめぐってくる。
言うまでもなく阪神淡路大震災は、日本現代史の中で特筆すべき事件であるが、その傷跡の生々しさゆえか、創作の分野で題材にされ、成功したケースは多いとはいえない。
そうした中にあって、神戸の街の現代を描いた異色のコミック作品を紹介しておく。

「神戸在住」作者・木村紺。コミック月刊アフタヌーン(講談社)に1998年から2006年まで連載された。ほぼ1年に1冊の割合で単行本が刊行され、全10巻が講談社から刊行されている。

主人公・辰木桂は神戸の大学の美術科に通う多感な女学生。高校まで生まれ故郷の東京で過ごすが、親の仕事の都合で家族と共に神戸に移り住んできた。
彼女の目を通した、特に大きな事件の起こらない日常を淡々と描いたこの物語は、神戸の季節のうつろいや観光スポットを描いた風物詩として読むこともできるし、ヒロイン辰木桂ほかの女性キャラたちに萌える読み方も可能だろう。

スクリーントーンを用いず、手書きの斜線で陰影を描きわける独特の技法。
人物も、背景も、強弱のない、しかし曖昧さを排した確かな線により描かれている。
適度にデフォルメされたデザインの絵柄は、ある種の「軽さ」を感じさせるが、実はこの作品は見かけとは裏腹の暗く、重いテーマを含んでいる。
それは社会にひそむタブーに向き合おうとするものであり、読者の前に、作者が仕組んだ「罠」か何かのように、唐突に現れるのである。

桂を巡る登場人物たちは多彩である。

大学の上級生にあたる中国系の林浩(リン・ハオ)は、学部から大学院に進学した。桂の親友・金城和歌子ちゃんと同棲している。この二人は震災での体験を共有している。
桂の東京時代の友人のひとり、左腕がない「隻腕の美女」高橋愛。ハンディキャップにもめげずに、力強く生きている。
美術科の上級生、韓国系三世・崔月姫(チェ・ウォルヒ)は通名(日本人名)の千田姫子を用いず、あえて本名を名乗るのを「かわいーやん? 発音も好きやし」と明快に説明するが、民族の誇りにかかわる重大な問題を含んでいる。

さらに桂は、大学の学部、サークルといった同じ世代の若者が、普通に参加するコミュニティーとは別に、神戸の町に根ざした、特殊な人間関係に主体的にかかわっていく。

モトコータウンにアトリエ兼ショップを開く、イラストレーターの日和洋次氏は腎臓に障害を持ち、車椅子に乗る生活を送る。桂は日向氏の描くイラストのファンである。日向氏を中心とするコミュニティーがまたユニークで面白い。

日向氏行きつけのカフェのマスターで、元オペラ歌手の小西さんは「ゲイ」の方である。
友人の早坂くんは耳が不自由な聴覚障害者で、相手の口の動きを見て会話する。ハンデに負けない明るさで、落ち込む桂を励ましたりする。

彼らは桂と同じ目線で笑い、悩み、涙する。
彼らが彼女に向けるまなざしはあくまでもやさしく、また、桂が彼らを見る目も限りなく澄んでいる。

「神戸在住」では、現実世界においては、隠蔽されている「憎悪」や「蔑視」といった人間の持つ悪感情を昇華させてしまっているかのようにも見える。
そうした作品世界を、上澄みだけをすくい取ったような表層的な人間関係の描写と見るか、あるいは、世間知らずの少女の描いた、壊れやすいガラス細工のような世界観と見るか。

そうした批判は当然にあっていい。
しかし、本作において、嘆きや悲しみに満ちた現実は、ときおり、読者の前に容赦なく突きつけられる。
震災ボランティアの仲間に何気なく「林君はチャイナか」と言われ、ひっそりと立ち尽くす林浩。
「チョン公」と言われた過去を、さみしい眼差しで語る月姫。
そして単行本7巻では、長い闘病生活の末の、日向洋次の死を描いている。

瞠目すべきは、マイノリティーやハンディキャップの人々に対し、積極的に向き合い、人間関係や生きることの意味を止揚させていこうとする作者の態度なのである。
こうした物語の舞台として、古いものと新しいものが渾然とし、異文化が混在する都市・神戸は似つかわしいと言える。

ところで「神戸在住」の主人公・辰木桂は震災後に神戸に移り住んできたため、多くの神戸の友人たちと阪神淡路大震災の体験を共有していない。
神戸の人は、よくこう言うのだそうだ。

「それは震災の前か? 後か?」

震災に話が及ぶと、一瞬、彼らの頭上には暗い影がきざす。
裏表のない癒し系のキャラクターと思われがちな、桂の友人・鈴木タカ美ちゃんでさえ、震災によるトラウマを負っているのであり、さほど大きくもない地震に我を忘れて取り乱したりする。そんな時、桂は「部外者」としての自分を感じる。

本作において、震災体験は、地震に遭った人々の回想の形で語られる。
1995年1月17日未明――この日以降の、災害救助、避難活動から復興に至る神戸の物語は、桂が現在いる地点における時間の流れとは別に、フラッシュバックのように作中で描かれる。
これが作者の実体験に基づくものかどうかは不明だが、確固とした取材に裏打ちされたストーリーは、重厚な迫力をもって読む者に訴えかける。

ところで単行本3巻に挿入されたコラムの中で、ジャーナリズムについて、桂の言葉を借りてこう語っている。
「神戸の人はマスコミに強い不信感を抱いている」と。
なぜなら「地震直後にはうるさい位ヘリを飛ばし、長引く避難生活で問題が山積みした頃にはもう、誰一人来なかった」から。
大震災の時、直後の喧騒は印象に残っているが、ある時期を境にマスコミの興味が、その後に発生したオウム事件へといっせいに流れてしまったのを思い出す。まあ、それがワイドショーの視聴者の興味であることも確かなのだが、それではいったいマスコミの主体性とはどこにあるのか。

余談だが、あまたの事故報道を見るにつけ、マスコミは、なぜ責任の所在ばかりを煽情的に追及し、当事者をまるで「仮想敵」であるかのごとくとらえ、視聴者の憎悪を煽り立てることに終始するのか。そして、事件や事故の裏面で運命に翻弄されつつも、力強く生きる人たちに対し目を向けることを、なぜしないのだろうかと疑問に思う。

それらはまるで瞬間視聴率を争うマスメディアに特有のゲームのようなものに思えてならない。

そうしたメディアが忘れがちな、当たり前とも思える人間の営みを、「神戸在住」は、ゆっくりとした時間の中で、着実に描いている。
作者が登場人物たちに仮託した、まなざしのやさしさ、そして確かさ。

それこそが私がこの作品を愛する理由なのである。



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