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南洋駄菓子本舗

アニメ・コミック・読書録・旅行記・その他見てある記、つれづれなるままに書いていきます。

異界紀行・越後七不思議~焼き鮒

これも越後七不思議のひとつ。

越後に配流されていた親鸞聖人が赦免されて都へ戻ろうかという折、土地の信者たちから祝いの宴を受けたその席で出された肴が焼いた鮒であった。
聖人がその鮒を手に取り、
「わが真宗の御法、仏意にかない、念仏往生間違いなくんばこの鮒、必ず生るべし」
と唱え池に放ったところ、その鮒が生き返り泳ぎ出したという伝承である。

逆さ竹の藪から南西へ約4キロほど、道の駅「新潟ふるさと村」からほど近い場所に、「見真大師 焼鮒御旧蹟」と記された石塔が建っている。当地に居を構える田代家に代々伝わる話なのだそうだ。

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近年まで、新潟市の白山から燕を結ぶ私鉄・新潟交通線には、七不思議ゆかりの地として「焼鮒駅」が存在したが、交通線が廃線となった1999年に同駅も廃駅となった。

新潟交通線跡は、一部が遊歩道として活用されており、焼鮒駅はその存在した場所の、路上に埋め込まれた「焼鮒駅跡」という銘板のみが名残りをとどめている。

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ふるさと村は観光客、買物客が引きも切らないが、こちらは足を止める者もほとんどない。
訪れたのは暑い一日だった。

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異界紀行・越後七不思議~逆さ竹

越後七不思議のひとつとされる。
「鳥屋野逆ダケの藪」として国の天然記念物にも指定されている。
この竹藪に生える竹には、枝が下向きに垂れ下がって生えるものがあることから、逆さ竹の名がある。
新潟市中央区鳥屋野の地にその竹藪はある。現在は公園として管理されており、開園時間内には自由に出入りすることができる。

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新潟(越後)は親鸞聖人ゆかりの地であり、親鸞にまつわる伝説が多く存在し、逆さ竹の藪もそのひとつにあたる。
伝承によれば承元元年(1207)、越後国分に配流された親鸞は、同三年の九月、国分を去って蒲原に移り、鳥屋野の里に草庵を結んで居所とすること三年に及んだとされ、親鸞が鳥屋野の地で布教していたとき、持っていた竹の杖を地面に刺したところ、それが根付いて枝葉が逆さに生えたということである。
中門から藪に入ると、細い道が通っており、園内を巡ることができる。
竹藪は東西に500メートルほどの広がりがあり、枝が逆さ向きに生えている竹には目印としてビニール紐が巻いてあるが、その数はそれほど多くない。
最も顕著に確認できたのは、出口にあたる東門付近である。
学術的には、ハチクという竹の枝が下向きに屈曲し、垂れ下がった状態になった変異種とのことだが、垂れ下がる原因については諸説あって決め手はないそうである。

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なお、親鸞聖人の草庵跡には元和年間大きな寺院が建立され、それが現在の名刹西方寺であるという。

ところで、逆さ竹の藪には最近になってもうひとつの不思議があらわれた。
2019年から竹の花が咲くようになったのだそうだ。
竹の花の開花は100年から120年に一度とされ、当地では5月から7月中旬にかけてみられるとのことであり、市や専門家、地元住民らの調査によると開花の範囲は年々広がっており、今年は過去最高の本数で開花が認められた。
とはいえ、実際に花が確認できたのは今のところ園内の限られた一画のみである。
見た目はイネの穂先のようで花というイメージからは遠い。

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竹の花が咲くのは竹藪が枯れる前兆ともいわれ、もしそうだとすれば、この逆さ竹の藪も終わりを迎えるかもしれないということになるのだが…。

ともあれ、昔からつたわる伝承を踏まえて、今でも目で見ることのできる不思議とは貴重なものである。

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異界紀行・耳なし芳一の話

今からおよそ800年以上前、源平最後の合戦となる壇ノ浦の合戦で平家は敗れ、平家が奉じた幼い安徳天皇は、海の藻屑と消えた平家一門と運命をともにした。
朝廷は安徳帝を悼み、壇ノ浦に程近い長門国赤間関(現在の山口県下関のあたり)の阿弥陀寺に御陵を祀り冥福を祈った。
阿弥陀寺は明治維新に廃され、赤間宮とされ、のち昭和になって赤間神宮と改められた。御祭神は安徳天皇である。
大戦の空襲で全焼した社殿は、長い年月をかけて復興造営され、現在、龍宮城を連想させる特徴的な「水天門」に象徴される景観を見せているが、これは「波の下にも都はありましょう」という有名な二位の尼の言葉にちなんだものであるらしい。

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現在、付近には魚市場や水族館などの遊戯施設も立ち並び、すっかり観光化されている。

さて、ここにひとつの伝説がある。
かつての阿弥陀寺には芳一という琵琶法師が住んでいた。
琵琶の名手として知られた芳一は、ある夜、謎の武士に導かれて寺を出て、貴人の館と思しき場所で琵琶を弾き語る。聴衆である貴人たちは、芳一の奏でる平家物語壇ノ浦合戦の段に涙し、芳一は館の主から七夜にわたる演奏を所望される。
芳一の外出が夜な夜な続き、不審に思った寺の僧侶たちが、芳一のあとをつけてみると、そこで彼らが見たものは、暗闇の中、立ち並ぶ墓石の前で一心不乱に琵琶を奏でる芳一の姿だった。
さては平家の亡霊に取り憑かれたものと察した和尚は、芳一に誰が来ても外出しないようにと堅く戒めるとともに、芳一の全身に般若心経を書き込み魔除けとした。
ところが、芳一の耳にだけ経文を書き忘れていたため、亡霊は芳一の耳だけを引きちぎって立ち去って行った。

言わずと知れた有名な「耳なし芳一」の怪談である。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が著書「怪談」の一編として記述したことから特に有名になったが、八雲の創作の典拠となったのが、赤間関に伝わる伝説であったという。
伝説の時代設定はあいまいであるが、発祥の場所はここ赤間関で間違いないとされる。

ここに芳一堂なるものが祀られているのを、私は今回下関を訪れて初めて知った。
赤間神宮の境内の一隅には、平家一門の墓所とされる墓石群があり、その傍らの御堂に鎮座するのは琵琶を奏でる法師、耳なし芳一の像である。
像は昭和32年、防府市出身の彫刻家の作で、つまりは伝説を具現化したものである。

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明治~昭和期の俳人・高浜虚子は、神宮境内の平家一門の墓を前にして

七盛の墓包み降る椎の露

と詠んだ。
七盛とは、平家一門の武将の名に「盛」の字が付くことからこう称されるのであるが、壇ノ浦に滅び、赤間の墓所に祀られる七人の武将~七盛の内訳は、平知盛、経盛、教盛ら名だたる面々。ただし、能登守教経だけは名前に「盛」の字が入っていない。

赤間神宮に隣接して安徳天皇陵があり、西日本唯一の御陵とされる。
こうして見ると、赤間神宮と御陵を中心とした一帯の聖域自体が、下関の海に沈んだ平家一門と安徳帝を偲ぶ鎮魂碑のようなものに思えてくる。
そして、その中に紛れ込んだ「耳なし芳一」というおどろおどろしい怪異譚。

平家滅亡の地というとりわけ濃厚な念、想いが生み出した伝説なのだろう。

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異界紀行・人魚の眠る寺

福岡市内を走る地下鉄空港線で博多駅からひと駅、祇園駅の階段出口を上がってすぐのところに、冷泉山龍宮寺はある。
周囲をビルに囲まれた博多の中心地であるが、大博通りをはさんだ向かい側に真言宗の大刹・東長寺があるので、周辺は京都の一角を切り取ってきたかのようなイメージを与える。
龍宮寺という海を連想させる寺号は何を意味するのか。
私が訪れた日、博多は雨であった。

九州西国霊場32番にもあたるこの寺院には、実は人魚にまつわる古い伝承がある。
以前当ブログでは人魚の肉を食べたために不老不死となったしまった八百比丘尼の伝説について扱ったことがあるが、ここ龍宮寺の人魚伝説はそれとは趣を異にする。

寺伝によると貞応元年(1222年)に博多の津で人魚があがり、このことを当時の鎌倉幕府に奏上したところ、朝廷より検分のため冷泉家中納言の当地への下向があった。
その際、安部大富という陰陽師が人魚の出現を「国家長久の瑞兆」であるとし、人魚を海辺にあり浮御堂と呼ばれていた観音堂のそばに手厚く埋葬した。
人魚は龍宮から来たものであろうということで、観音堂は龍宮浮御堂と呼ばれるようになり、後に後堀河院から冷泉山慈眼院龍宮寺の号を賜り、寺が建立された。

寺には「人魚の骨」が安置されているそうだが、残念ながら拝観する暇はなかった。
何でも江戸期に寺域から掘り出されたものであるらしい。
また、境内には人魚塚という石碑が存在するが、明らかに最近になって建てられたものである。

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人魚の出現した日付が具体的に残されていることから、根も葉もない怪異譚の類ではなく、文献による記録がベースにあるのであろう。
実は同じような話は各地にあり、古くは「日本書紀」にも漁師が人魚を捕らえたという記述が見られる。
つまり、八百比丘尼伝説が成立する以前より、人魚の目撃情報は各地にあったものと考えられる。
とにかく古い話であり真相は不明だが、日本近海では珍しいジュゴンやマナティなどの海獣が漁師の網にかかったということなのかもしれない。そう考えるのが素直であろう。

それとも…である。

古代から中世の、まだ神がかり的な気に満ちた日本には、本物の人魚が現れたとしてもおかしくない神秘が、まだ国中のいたるところにあったということなのか。

博多沖の荒波を越えてやって来る人魚のイメージは幻想的であり、それは大自然が人間に見せる雄大な夢なのかもしれない。

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異界紀行・長崎の幽霊飴

先日、古本屋で「お化けの住所録」という本を見つけ、安かったこともあり即購入した。昭和50年二見書房刊の古い本であるが、オカルトファンの間では割と知られた本だそうだ。著者・平野威馬雄は翻訳家・仏文学者として知られるが、一方でUFOの研究に打ち込んだり、「お化けを守る会」の会長を称したりと、多彩な活躍を見せた(1986年没)。

本書は日本各地でのお化け(幽霊)の目撃談につき、その現場住所もあわせて記しているのが特徴であり、このため心霊スポットの元ネタとして今日でも引用されることがある。

とはいえ、中身を見るとその内容は千差万別であり、将門の首塚(東京都千代田区大手町)や緑風荘の座敷童子(岩手県金田一村)のように、もうや威厳さえ感じさせる歴史的な怪異譚の舞台もあれば、歳月の経過に耐えられず、あるいは現場自体が解体の憂き目を見るなどして、今日では心霊スポットとしては色褪せてしまった例もある。

そうかと思えば、グラフィックデザイナーの横尾忠則が成城の自宅で体験した怪異譚とか、歌手の岸洋子が昔泊まった宮崎の旅館で幽霊を見た、といった個人的な体験談も収録されており、これなどは、そこに行けば幽霊に会える(かもしれない)とされる心霊スポットの趣旨からは少し離れるかと思う。

今回取り上げるのは、そんな「お化けの住所録」のうち、長崎県長崎市伊良林町の光源寺という浄土真宗の寺院にまつわる話である。

私は先日、怪談の舞台である長崎の現地を歩いてみた。
そう、つまり、2年にもわたってブログ更新を停止していた私・北浦芸州は、突如として九州は長崎の地に現れたのである。
ここに至るまでの艱難辛苦の道のりはひとまず措くとして、坂の町として知られる長崎の、風頭山麓に10数ヵ寺の寺院が建ち並ぶ寺町の一角に光源寺はある。

「住所録」の記述はこうである。
大正13、4年の頃、飴屋に夜な夜な飴を買いに現れる女がいて、不審に思った飴屋の爺さんがあとをつけてみると、女は光源寺の本堂隣の墓地へと消えていった。
翌日、爺さんが住職に事情を話すと、住職は首をかしげながら寺男を呼び、本堂横の新墓を掘らせてみた。
すると、墓の中では生きた赤ん坊が飴をしゃぶりながら泣いていたので、さては赤ん坊の死んだ母親が幽霊になって、わが子に飴を与えていたのだろうということになり、寺ではこの赤ん坊を引き取って大事に育てた。
そして心優しい住職は、その母親の姿を飴屋の言うままに絵に描き、町の人形師に人形を造らせ、本堂に納めた。

こうした幽霊飴の怪談は実は全国各地にある。
真夜中に飴を買いに来る女の後をつけてみると、とある墓の前で姿を消す。墓を掘り起こしてみると、そこには赤ん坊が…というのがお決まりの逸話なのだが、京都東山の六道の辻近くの菓子舗には、私も行ったことがあるが、その名も「幽霊子育飴」が売られているし、このほかにも同様の怪談が日本各地に伝わるらしい。

赤ん坊はのちに修行を積んで高僧になったという顛末がつく場合が多く、何らかの仏教説話にその淵源があるのかもしれない。
だとすると、各所に墓から掘り出された赤ん坊が本当にいたのかどうかはともあれ、ただ何かしら幽霊の目撃譚やそれに類するものがあり、その因縁話として幽霊飴の伝承をまとうに至ったという可能性はある。

長崎バージョンでは、母親の幽霊は、それからも時折わが子恋しさに丑三つ時になると寺のまわりを歩き回り、本堂を覗き込んだりする姿が通行人に目撃され、地元紙にも記事が掲載されて評判になった、とある。
「住所録」の著者が光源寺に取材した昭和41年当時には、すでに件の墓はなくなってしまったものの、女幽霊の絵と人形は大事に保存され、毎年夏の暑い時期に開帳されるとのことであった。

京都やその他多くの幽霊飴が江戸期以前のことであるのに対して、長崎の幽霊は近現代の話で新聞記事にもなったなど妙に生々しい。
長崎の観光案内にも登場するし、幽霊の人形や日本画の掛け軸のご開帳は、今も連綿と続けられており、今年も8月16日に行われた模様が現地の新聞やTVニュースで報じられた。

光源寺のある寺町の高台から、さらに坂を登っていくと、幕末の坂本龍馬が設立した貿易結社・亀山社中の記念館がある。寺町には唐寺など観光寺院もあり、また、周辺には宣教師以来の教会堂などキリスト教にまつわる施設も目立ち、観光客の姿も多く見受けられる。
光源寺のご開帳より1日早い旧盆の8月15日に、爆竹を流しながら故人を偲ぶ精霊舟が町中を練り歩く精霊流しは長崎の風物詩である。

和洋中の見事に折衷したこの町で、今なおこのもの哀しい怪談は語り継がれているのである。

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